木曜日

網膜は絵以外をはじいてく

デザインフェスタに行ったときや、TCAFに行ったとき
目にフィルタがかかっていくのを感じた。フィルタリングで余計な
情報をそぎ落としていくというよりは何かに集中して吸い込まれていくような、
とにかく獲物を追うような目だ、獲物ではなく絵物と呼ぶことにする
そのとき絶えず自分の目は動いて絵だけを探す、何か心に感じ取る
ものがあった瞬間すぐそこへ行く、ためらいはない。

そう書いてふとこのまえ自分が言ってることに何か矛盾を感じた。
タイトルがないとわからないとか、ポストカードにはコンセプトがどうとかいう話だ。
多分そういうのはホールに対して展示数が少なくて落ち着いて見れる
場合や、物品として販売するときに特に必要なのではないか。
(タイトルがなくて「青くて、ねずみが描いてある右上の絵をください。」とかお客さんがいうのって販売には非効率だもの。)
少なくとも 自分が絵物を求めて動いている雑多なフェスタの中で注目しているのはやはり絵そのものでしかない。
置いてある絵に対して感じないときはすばやく通り過ぎる。
感じたら見入る、座り込む、近づく、違う角度から見る、口をあけっぱなしにする。
そうだ理解する前に入り込んでくるこの直接的な刺激がいいのだ。
タイトルだとかコンセプトというのは その刺激的な幕開けのあとに
あ、この人の名前ってなんだっけ?とか なにをやろうとしてるんだろう?とか
そういう疑問に答えるためにあるのではないか?
もちろんタイトルがないと逆に成り立たない作品もいっぱいあるとおもうけど。

http://yukoadachi.exblog.jp/1844925/
これまでの文は↑のブログを読んで、触発されて書いたものだ。
でも冷静に見直すとこの方の場合は 
『資本主義のなかで人間の価値が歪んだ世界。有名画廊に置いてある絵だから本物 とは限らない、純粋な目で見ること。』
ってことを言っていてぼくの場合は 
『タイトルやコンセプトよりまずそこにある絵の見た目を純粋に感じるところ
から恋が始まる』
と思ったので見た目重視というところだけ共通しているようだ。

参考
アメリカより発信 アーティスト 安達木綿子の芸術空間
 
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