画;和気晃/homepage W
archive.orgの「homepage W」より無断転載
技法のサーカスみたいになったときにふと立ち返る。
和気さんの絵は重厚で質感系でコントラストがあって
でもいつもどこかにユーモアがあって温かかった。
シャア専用便器とかも馬鹿みたいだけど素敵だった。
和気さんの絵はこうやって振りかえるほうがいいとおもう。
いまでも和気さんの絵が好きだし、知ってほしいから
無断転載します。
人に絵が好きだとかファンだといわれると
嬉しいと思う反面、きっとこの人は来月には、いや明日には、いや一時間後には
自分の絵に飽きているだろう、興味をなくしているだろう、まあ見てもいい程度に
なっているだろうと予測する。なぜなら自分がそうだからだ。1日前にブックマーク
した絵がどうでもよくなってることなんてよくあることだ。だから人もそうだと思っている。
でも逆にいうと今どうでもいいその絵が明日には、一時間後には、五分後には
ものすごく輝いて見えることだってあるということだ。(だからなおさら今私の絵が
輝いていますよということを伝えてくる人はその周りに転がっているものに気づかずに
今光ってみえたものに対して反射して「光ってますよ」と言ってきただけにすぎないから、
その人の反射に今後も過度な期待をしてはいけないとおもうのだ)
また、この絵がいいとかセンスがいいとか天才だとかいうのはそれをいった本人が
音楽の趣味の良さをアピールするのと同じように、”これこそが自分”が認めた絵ですよ”
”こんなにすばらしいものをいいという自分はどうですか”という”自分”を押し通したい
だけではないのかとおもえるときがある。
~は神 という言葉の裏にそういう我があるんじゃないかと勘ぐってしまう。
和気さんの絵が好きだ。
これは2000年の絵である、9年たってもやはり好きであった。
それなら人をもう少し信じてもいいんじゃないだろうか?
ぼくは和気さんの今の絵を知らない。今描いているのかもわからない。
連絡をとろうともしていないし、もしもぼくがサイトをやめたあとに
ある時点から更新が止まったままの自分の絵が載っていて
それがあがめられていたら 何ともやりきれない気持ちになるかもしれない。
今の自分はなんなのって?いう気持ちになるかもしれない。
そうだ、自分勝手にこれから先も好きである保証もなにもなく
ただ叫んでいるだけだ。ただこの絵はネットから見ることができなくなったうちの
とても大切で好きな絵の一つなんだ。だからみんな見てくれ。